前回は春日山神社から歩いて10分ほどで最初にたどり着く「甘粕近江守」の屋敷までをリポートしました。

その甘粕近江守の屋敷を抜けどんどん登っていきます。

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結構勾配があります。
昔の人はこんな坂を毎日昇り降りしていたのでしょうか。だとしたら当時の武将たちは相当足腰が強くなったことでしょう。

馬場(うまば)はこのはるか下にあるのでやはり移動は徒歩か?それとも平時は山麓に住んでいたのでしょうか。
どんどん行きましょう。そして・・・

やっとつきました三の丸!

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やっとつきました三の丸。

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この三の丸は三郎景虎屋敷、米蔵があったと言われています。
この2つは段違いに造られ区分され、景虎屋敷の東端に入り口が設けられ今も道が残っています。
春日山城は廃城になってから400有余年。

建物などの建造物は残ってなく、再建もされていないのでがっかりされる方もいらっしゃるようです。

しかし当時を感じられる堀の跡や道の跡は残っていますのでこんなところで当時を想像していただきたいと思います。

まあ、上越市も色々な史跡を抱えて復元する予算がないんでしょうけれども。

話がそれましたが、三郎景虎といえば北条氏康の七男です。

上杉と北条が同盟を結んだ時に氏康が差し出した人質が三郎景虎です。

三郎景虎は謙信の姉の子(上杉景勝の姉)と結婚しています。

後に北条氏康は上杉との同盟を破棄せよ、といったとかいわないとか。
父親に見捨てられたなんて可愛そうですが、それが戦国の常だったんでしょうね。

しかし三郎景虎は春日山に残ったそうです。

景虎屋敷周辺から眺める景色はとても良く、ここまで登ってきた苦労と汗を風と景色が癒してくれます。

先述しました通り、春日山城には当時の建物も、復元された建物もほとんどありません(毘沙門堂だけは復元されています)が、こういう景色をぜひ見ていただきたい。

後述しますが、林の中に集落が点在する様子は戦国の当時に描かれた絵とほとんど変わりません。

ここまで登って、景虎が見ていた景色をぜひ、見て、想像していただきたいと思います。

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景虎屋敷は甘粕近江守の屋敷に比べると広く、隣に米蔵もあったことから謙信に信頼されていた、とも言われています。

後に謙信亡き後、勃発した【御館の乱】で亡くなりますがその時の年齢が26歳とも言われています。
ちなみに争った景勝が24歳以下だったので若い二人の争いだったのですね。

若いのに命のやりとりをするなんて。

昔ではなく、現代の日本に生きていて、ほんとよかったと思います。

ここを抜け更に上を目指します。

次は「二の丸と大井戸、天守閣」です!

それではまた!


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上杉謙信の城、春日山城跡に登ってみた!その1

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